整合性の正体②――その線を、いつ引いたのか

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測った値幅の先へ価格が届くと、やはりここを見てよかったのだと思う。
長くチャートに線を引いてきたが、波がひとつの形を完成させるところには、今も惹かれる。途中ではばらばらに見えていた値動きが、あとになって一続きのものとして見えてくる。自分が引いた線と価格が重なると、相場の何かに少し触れられた気がするのだ。
以前「整合性の正体」という記事で、1波の起点について考えた。
底値からの上昇全体を測る場合と、直前の戻り高値を超えた波を取り出して測る場合では、その先に置かれる目標が変わる。私は、旧構造を否定した波の値幅を受け取り、その後の3波との関係を見ることに意味を感じていた。
この見方は今も変わっていない。
ただ、前回の記事を書いたあと、少し気になることが残った。いや、「気になる」という感覚にさえ満たないような僅かな違和感だったと思う。それが言葉となって私の中に組み立てられるようになったのは、ずっと取り組んでいるEA開発の最中だった。

価格が整合することと、観測そのものが整合していることは、本当に同じなのだろうか。
以前の記事を読み返すと、相場から何を受け取るかという立場を一貫させることは、すでに自分で書いていた。今回初めて気付いた話ではない。しかし、その一貫性を実際に維持するとなると、思っていたよりもずっと細かな問題が出てきた。現在のEA開発は、その細部を一つずつ問い直す作業になっている。

例えば、まったく同じチャート画像が二枚あるとする。
どちらにも同じ起点から線が引かれ、同じ場所に目標が置かれている。そして価格は、その目標まで届いている。
一枚目の線は、到達する前に引かれたものだ。もう一枚は、到達した価格を見てから、それに合う波を探して引いたものだったとする。
画像だけを見れば区別はつかない。価格が整合している、という事実はどちらも変わらないからだ。
しかし、検証として受け取れるものは随分違うはずだ。後者も、波の捉え方を考えるきっかけにはなる。そこから新しい発見が生まれることもあるだろう。しかしその線を本当に到達前に引けたかどうかの答えは、自問自答の中にしかない。



私はこれまで、チャートのどこに線を引くかを考え続けてきた。
EAへ渡そうとすると、そこにもう一つ、いつその線を引けるようになったのか、という問いが加わった。
この「いつ」がひどく厄介だった。
ある高値が1波の終点としてチャートに残っている。その高値をつけた瞬間には、まだ上昇の途中だったかもしれない。私の理論では後続の値動きによって、そこを終点として扱う条件が揃うことになる。
高値が生まれた時刻と、そこを終点だと認識できた時刻には、隔たりがある。
一般論的に言えばブレイクした時のヒゲ部分と実際に終値が確定した時点の差と言えばわかりやすい。
この点に関して、完成したチャートではその隔たりが見えにくいということだ。高値の位置に印を置けば、初めからそこが終点だったように見える。しかし、当時の自分がその印を使って判断できたとは断言できない。今の設計で、出来事が起きた時刻と、それを認識できた時刻を分けて扱っているのは、このためでもある。

例えば、確定したローソク足の終値でライン突破を確認する、と決めていたとする。形成途中で価格がラインを越えても、その足が閉じるまでは突破したことにできない。結局、終値がラインの内側へ戻ることもある。
あとから見ればヒゲ一本の話で済む。動いている最中には、そのヒゲの先が現在の価格だ。
つまり、自分がどの時点に立っているかで、使える情報は変わるということだ。

観測軸を固定するという言葉の中には、この時間の制約も含まれていたのだと思う。
H4を見ると決めるだけでは足りなかった。そのH4のどの時点までを知っているのか。まだ閉じていない足を、閉じたものとして扱っていないか。
完成したチャートを眺めながら、自分だけは完成前の世界にいるつもりになる。これは思っていた以上に難しいイメージの仕方だ。

こうして考えてみると、値幅が綺麗に揃っていることだけでは、確認しきれないものがある。
その波を採用するための証拠は、いつ揃ったのかという問い。目標へ届く前に、観測を続ける前提がすでに失われていなかったかという問い。
仮に、事前に決めた終了条件に達し、その構造としての観測を終えたとする。そのあとに別の値動きを経て、価格が昔の目標へ届いた。数値としては到達している。しかし、それをもって、終えていた検証まで成功に戻すことはできないはずだ。チャートに流れる時間は不可逆なのだから。

例えば、価格は同じ場所に来ることがある。しかしその場所へ至るまでに、価格を追従していた根拠は途切れているかもしれない。
前回書いた観測寿命や説明権の話は、ここにつながる。過去に使っていた構造が履歴として残ることと、今もその構造で説明を続けられることには、区別が必要だった。
チャートには、その区別をしなくても線を残しておける。
ラインは何も言わずにそこにある。価格が近づけば、再び意味を持ったように見え始める。それ故に、そのラインを根拠にして何を言ってよいのかは、自分で管理しなければならない。

もっとも、これを突き詰めて、観測中には何も変更してはいけないとすると、それはそれでおかしなことになる。
まだ形成途中の波なら、新しい高値や安値によって候補点が変わる。未確定の候補まで固定してしまえば、今度は相場の変化を受け取れなくなる。
固定しておきたいのは、何を根拠に更新するかという規則だ。未確定の候補をその規則に沿って動かすことと、正式に採用した起点を到達結果に合わせて差し替えることは、分けて考えるのだ。そして変更前にどう見ていたかも残しておきたい。

例えば、昨日と今日で認識が変わるのは自然なことだ。
昨日までは維持されていた条件が、今日になって破られたなら、見方を変える。その変更は、昨日の自分を裏切ることにはならない。昨日の自分も、その条件が破られれば観測を終えるつもりでいたからだ。
むしろ気を付けたいのは、違う理由を使いながら同じ結論を守り続けることなのではないか、という点だ。

例えば、最初に見ていた構造が崩れたとする。
それでも最初に見えていたものを信じたい気持ちが拭えず、価格はこのまま上昇してほしいと思い、少し大きな波へ起点を移す。それが難しくなると、今度は下位足の小さな構造を持ってくる。最後に価格が上がれば、最初からその上昇を見ていたことにする。

ひとつひとつの説明には、それなりの筋が通っているかもしれない。問題は、それらを同じ検証の続きとして、同じ起点からつないでしまうところにある。
状態と状態の間にある遷移の仕方には明らかにローソク足同士の連続した継承がある。
しかしこの値動きをトレーダーが定義を更新しながら追いかけると、途中で何を手放したのかが分からなくなるのだ。

以前の「整合性の正体」には、合わない場合は定義を疑う、と書いた。今も、その姿勢は大切だと思っている。
ただ、この言葉には注意が必要だったと今ならわかる。
結果に合うまで定義を変え続ければ、最後には何かしら説明できる形になるかもしれない。それを繰り返すだけなら、理論はいつまでも間違わずに済む。外れたのはいつも古い定義で、新しい定義は目の前のチャートにぴったり合っている。
それでは、相場から何を学べたのかが曖昧になる。その時何を受け取っていたのかが霞んでしまう。
ある見方がうまくいかなかった。その理由を調べて、別の起点の取り方を思いついた。そこまでは研究として必要なことだ。私の手法も、そうした見直しを重ねてきた。
そんなときでも、うまくいかなかった記録は残しておきたい。
新しい定義で同じチャートを読み直すと、以前は見えなかった関係が見えるかもしれない。しかしそれは、新しい定義を作るきっかけになった場面でもある。その場面で綺麗に説明できることだけを、次にも使える根拠にはしない方がよいと思う。これはEA開発における過剰最適化(オーバーフィッティング)と呼ばれるものと同じだ。追求しすぎてはいけない線引きがあるのだ。

これからの検証では、到達結果を知らないところから、その起点を選べるかを確かめることが大事になってくる。
そしてそれを選んだあとに何が起きたかを、都合の悪い部分も含めて残す。面倒だが、ここを飛ばすと同じところへ戻ってしまう気がする。
私は観測を続けながら定義を育てたい。これまでそうやってきた。定義を更新することに躊躇いが一切ないのだ。
そのためにも、定義を変える前の自分が何を見ていたかを、消してはいけないと思っている。それがきっと大切にしなければならないことだったのだ。
そして、記録には何も描けなかった空白も必要になる。

今の観測軸ではどの構造を採用すべきか決められないとか、まだ必要な証拠が揃っていない、といった観測時点の出来事を、そのまま残すということだ。
現在の理論整理では、説明権が確立していない状態を不明や未解決として保持することを認めている。すべての値動きに、常に名前を付けることは目標にしていない。
ただ、UNKNOWNと書けばそれでよい、とも思っていない。
何が足りなくて判断できなかったのかは、後から振り返られるようにしておきたい。後続の証拠で判断できるようになったなら、それがいつのことだったのかを残す。あとで波の全体像が見えても、以前は判断できなかったという記録を、最初から分かっていた形に塗り替えないようにしたいのだ。

例えば、完成したチャートにそのときの空白が残っている。
そういうと少し不格好かもしれない。説明のつかない部分を残したままだからだ。しかし実際に自分が立っていたのは、その空白のある時間だったはずだ。
チャートが読めず、どこから確かめればいいのかも分からなかったような瞬間は確かにある。判断を保留にしていた空白だ。

こうしてここまで考えると、波が整合しなかったという結果を、観測の一貫性を保ったまま受け取ることもできるはずだ。
採用した波が、期待していた関係を満たさなかった。その結果を認め、あらかじめ決めていた条件に沿って観測を終える。これは、その波の仮説にとって都合のよい結果ではない。それでも、何を確かめて何が得られなかったのかは残る。
もちろん、「一貫して観測したから問題ない」で済ませるつもりもない。
同じ規則を守っていても、その規則が相場を捉える助けになっていなければ、見直す必要がある。整った説明体系を作ることだけが目的になれば、相場がどう動いても、内側の理屈だけで納得できるものができてしまう。
それはトレーダーにとって、恐ろしいことだ。
観測の一貫性を保つのは、その見方がどこで機能し、どこで機能しなかったかを、あとから確かめられるようにするためだ。その先で、売買にどう役立つかも検証しなければならない。今回の再設計によって定義が明確になったとしても、それだけで収益性まで確かめられたことにはならない。

だから、価格上に現れる関係への関心は、今も同じくらい強い。
構造を否定した波が、その後の波の基準として働くのか。自分が受け取った値幅は、どこまで意味を持っていたのか。そこを確かめたい気持ちがあるから、観測の仕方にもこだわっている。
以前は、線と価格が重なったところに強く目を向けていた。
今は、その線を引いた瞬間の自分自身の状態も気になっている。
何を見て、そこに引いたのか。そのときまだ分からなかったものは何だったのか。後から得た情報を取り除いても、同じ場所にその線を引けるだろうか。

10数年、チャートに線を引いてきた。
前回は、多すぎる線が相場への理解を妨げたと書いた。解釈を揃えて線を減らすことで、見えやすくなったものがあった。
今度は、残った一本について考えている。
そこには価格だけでなく、その時その場所に立つ自分の判断も置かれていたはずだ。線を動かすなら、動かす前の判断をどこかへ消してしまわないようにしたい。

もしもそれが波動の神髄だとでも言うのなら、波が綺麗に整合するところを、これからもずっと見ていたい。
そのときに、あとから引き直した自分の線を眺めていただけ、ということにはしたくない。そう言ってしまっては厳しいだろうか、でもそう在りたいと願うのだ。
次に目標へ価格が届いたら、到達した場所と一緒に、その線を引いたあの時のあの場所まで戻って見てみようと思う。


整合性について語った最初の記事はこちら。

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“整合性の正体②――その線を、いつ引いたのか” への1件のフィードバック

  1. […] 「実戦における使い方」① ネックラインは上位足実体で判断② 戻り高値超えを1波とみなす③ その1波を基準に3波を測る④ 合わない場合は、定義を疑う(波ではなく自分を疑う)こんな感じで見てみると波への理解が進むのではないかと思う。特に④を実行することを恐れてはいけない。私たちが相場の世界で生きていくためには相場を理解しなければならない。いくつもの波を数えてきた。いくつもの自分には乗りこなせない波を見てきた。それらはきっと私が乗りこなし方を知らなかっただけ。相場は泣き叫ぶことも怒り荒ぶることもないただの価格の推移なのだから、ただ知りたいと思えばいいのだ。続編「整合性の正体②――その線を、いつ引いたのか」 […]