裁量のEA化を、単なる「手法のコード化」だと思っていた時期があった。実際に手を動かしてみて、それが違うと分かった。
トレーダーの判断は環境認識から始まる。上位足を見て、大きな流れを掴む。そこからMTF分析で執行足まで降りていく。降りた先で初めて、押し目買いや戻り売りといった具体的な手法に接続する。
言葉にすれば単純だ。だが「トレード方法」という言葉の中には、何重にも階層化された判断構造が畳み込まれている。しかもその階層は、人間の中ではほとんど継ぎ目なく縦断されている。
一本の線を引く。
「ここを起点にする」
そう決めて線を引く。だが引いた結果を見て、何かがおかしいと気づく。
「いや、こちらの点の方が自然だ」
これは単純なルール適用ではない。
観測。仮説。操作。再観測。修正。この循環が、一つの動作の内側に折り畳まれている。本人の感覚としては「線を引いた」という一つの行為にしか見えない。だがシステムとして分解しようとすると、そこに複数の処理が存在していたことが露わになる。さらに厄介なのが、参照範囲の外から入り込んでくる経験だ。
直近数か月のチャートで環境認識をしているとき、判断材料はその期間内の価格情報だけだと思いたくなる。実際は違う。
「あの時の値動きに似ている」
「以前この形で失敗した」
「この通貨ではこういう動きをすることがある」
観測期間の外側にある記憶が、時には別通貨・別時間足という形で、状況に応じて呼び出されてくる。しかもそれは毎回意識されているわけではない。表層では「この形だから買う」としか語られない。その裏側で、成功と失敗、違和感、値動きの速度、位置関係といった、大量の潜在的な経験値が作用している。
人は、思っているよりずっと包括的な判断でトレードしている。では、それをどうEAに落とし込むのか。最初は、自分の売買方法をそのままコードにすればいいと考えていた。だが進めるほどに、それでは足りないことが分かってきた。売買手法の手前に、現在の市場状態をどう認識するかという階層が必要だった。どの時間軸に属する状態なのか。どの構造がまだ有効で、何が変化したのか。そもそも今は売買を検討できる局面なのか。
これは売買ルールの問題ではない。
……――システムは、状態の観測と、その出力を求めていた。そう思ったのだ。
観測結果を受け取って、初めて売買システムが稼働準備に入る。しかもそれだけでは足りない。ロット、損失許容額、約定状況、既存ポジション、通信状態、異常時の処理。そして別の観測軸から実行そのものを許可・拒否する層が、さらに外側に必要になる。市場をどう解釈するかという問題と、その取引を実行してよいかという問題は、同じものではない。
SNF_Observerが売買そのものを行わず市場状態の観測に徹し、その出力を売買EA側が受け取り、さらに執行・リスク管理を独立させようとしているのは、この構造への回答だった。
ここまで来て、私は私のいる場所を知った。最初は市場を観測するEAを作っていたはずだった。だが実際に観測していたのは、市場だけではなかった。
「自分はなぜここを重要だと思ったのか」
「なぜこのラインを採用したのか」
「何を見た瞬間に、それまでの判断を捨てたのか」
裁量では一瞬で通過していた判断に、一つずつ名前を与えていく作業になった。混ざっていたものを分け、順序を与え、条件を与える。分からないものは、分からないものとして残す。自分のトレード手法を作っているというより、自分の中に存在していた判断構造を、外へ取り出している感覚に近かった。観測。仮説。操作。再観測。修正。この五段階は、人間の内側では一つの動作として体感される。だが分解すると、それぞれが独立した処理として存在している。
観測とは、今見えている構造を捉えることだ。仮説とは、その構造をどう説明するかという暫定的な理解を置くことだ。操作とは、その理解に基づいて何かを実行することだ。
線を引く、ポジションを持つ、損切りラインを動かす。そして操作の結果が、新たな観測を生む。その観測が、最初の仮説を裏切ることがある。人間はこの食い違いを、ほとんど継ぎ目なくスムーズに処理する。線を引き直す。エントリーを見送る。損切りを早める。どれも「判断を変えた」という一つの出来事としてしか記憶に残らない。だがEAにするということは、この継ぎ目のなさを分解するということだ。
どの観測が、どの仮説を支えていたのか。
その仮説は、どの操作によって検証されようとしていたのか。
検証の結果、何が更新され、何が更新されなかったのか。
裁量の中では境界のなかったこれらの段階に、一つずつ輪郭を与えていく作業になる。
厄介なのは、この輪郭が最初から存在していたわけではないということだ。輪郭は、外へ取り出そうとした瞬間に初めて要求される。裁量でトレードしている間、自分はこの五段階を意識したことなど一度もなかった。
これは、AIとの対話で起きていることとよく似ている。AIに何かを説明しようとするとき、曖昧だった考えに輪郭を与える必要が生まれる。言葉にする。AIがそれを返してくる。読む。「いや、そこではない」と思う。もう一度説明し直す。この往復の中で起きているのは、AIが答えを与えているという単純な構図ではない。外に出した自分の考えを、自分自身がもう一度観測しているという構図だ。説明という操作が、新しい観測を生み、その観測が最初の理解を書き換えていく。
EA開発でも、同じ循環が働いていた。自分の判断をコードという外部形式へ移そうとする。すると、一つに見えていた判断が、観測・仮説・操作という段階へ分解される。その分解されたものを見て、初めて気づく。
「ああ、自分はこういう順序で考えていたのか」
以前、Webが人と人との距離を縮めたように、AIは自分と自分の間の距離を縮めている、と書いた。EA化も、これと同じ働きをしていたのかもしれないと思う。自分の中にある暗黙の判断構造を一度外へ出し、それを別の場所から眺め直す。市場を見る自分。判断する自分。その判断をコードへ変換する自分。さらにその変換過程を外側から眺めている自分。
気づけば、自分の中に元々あった境界線が、少しずつ輪郭を持ち始めていた。裁量トレードのEA化とは、人間がやっている売買を自動化することだと思っていた。今では少し違って見えている。それは、人間が無意識のうちに行っている観測と判断の構造を、一度外へ取り出す作業だったのだと思う。
市場を機械に理解させようとしていた。その道半ばで、本当は自分自身が市場をどう理解していたのかを、私は初めて理解し始めていた。
EA開発―市場を観測するつもりで、自分を観測していた―
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波の完成形を見たい波形トレーダー