AIと人の相似形

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第一部:AIという「相似形」と主体性の混濁

最近、ChatGPTやGeminiなどのAIを利用して自分のブログにおける主張の一貫性やトレードの振り返り記事における自己客観視ができているかの分析をしていた。
するとその会話の中でAIっぽい単語や文章があることが分かった。その視点でXに流れてくるポストを見ているとAI出力された文章を用いているなという印象を受けるものが散見された。
そこから私が考えたことは、用いること自体が問題なのではなく、多用し彼らの言葉を主軸に置くことはその人本人の言葉と思想の結びつきが薄くなる可能性があるということ。
これが行き過ぎると虚構性とでもいうか、ペルソナ性というか、要するに本人の中にある言葉とポストされる言葉に乖離が生まれてしまい、主体性の混濁が生まれるのではないかという疑問だった。

現代のAIは、単なる検索エンジンや計算機ではなく、我々の思考プロセスや言語の癖を学習し、あたかも「自分の一部」であるかのようなアウトプットを生成することが可能となった。
ここで生じる問題は、AIが自分と相似形になるほど「どこまでが自分か」という境界が混濁していくことにある。

最初の内は、自らの思考を学習させてアウトプットの相似化を図るだろう。その内にプロンプト修正が不要になってきて人が修正を加えなくなると思考の相似に発展すると考えられる。
自分からAIへ、という形が、AIから自分へ、という構図になるわけである。
AIが整理した言葉を自らの言葉として発信することで言葉と主体(自分)の結びつきが希薄化する。
どこまでが自分によるもので、どこからがAIのものかわからなくなる。
この境界線の混濁は、我々が無意識に本来持っていた「主体性」を曖昧にしてしまう。
AIが精緻になればなるほど、人は「自ら問い、自ら決断する」という主体的負荷を、無意識にAIへと委譲してしまうのではないか。

こういった考察をXの中でポストしていたのでリンクを貼っておく。

第二部:AIとトレードの共通点

この「主体性の混濁」は、トレードの世界でも共通した問題として見出すことができる。
多くのトレーダーは、優れた手法や自動売買システム(EA)を手にすると、それを「道具」として使うのではなく、自分の「思考の代行者」にする。恐らく無意識的に。
ポスト内の言葉を借りれば、行為能力が重なった場合、主体性を混濁しうる。ということになりかねないのだ。
これは行為を指示する自分ができなかったのか、行為を担うシステム(EA)ができなかったのかという混濁が生じる基盤になる。
すなわち、トレードの実行という役割を外部化することによって起きる主体性の移譲である。

・思考の外部化: 手法通りに動くことが、いつしか「なぜその手法が機能するのか」という自己の判断を追い越してしまう。
・責任の空白: システムが判断を下しているという感覚が、負けた時の責任感を希薄にさせ、結果として学習や成長の機会を奪う。

AIに主体を預けることと、聖杯(手法)に主体を預けることは、構造的に全く同じ罠に陥っているのだ。

第三部:フラクタル構造論から見る「自己」と相場における「主体」

このブログの中ででたびたび言及しているフラクタル構造論(自己相似性)の視点で見れば、AIと人の関係はより鮮明になる。
マクロ(全体の思考)とミクロ(AIの一つの回答)が相似形を描くとき、そこにあるはずの境界がなくなり同一視されていくと仮定できる。
しかし、フラクタル図形が「観測者」がいて初めてその美しさを認識されるように、AIという相似形を「自分の一部」として客観視するメタ的な観測点があれば、その同一視という主体性の混濁は防げると思う。
AIが自分に似てくるからこそ、あえてそこから分離し、相似性の連鎖を俯瞰する視点を持つこと。それが、フラクタルな世界における主体の保持に繋がると言えるのではないか。
私はこのブログの中で、フラクタル構造論の再定義を試みてきた。
相場の天底を描写する支配波の影響下(水平線上と斜線上)において波形が相似する現象をフラクタルと呼んだ。
この観測は、支配波という主体とその影響を受ける継承波という客体にわけて考えることができる。
フラクタル構造論の一般的な説明では、全体と一部が自己相似であることが強調される。
しかし、この相似性を繰り返し観察していると、全体と部分が混濁していく。
これは構造の問題ではなく、「観測の問題」だと言える。

一部を見て全体を想定し、全体を見て一部を正当化する。
この循環が固定化された状態を、ここではループ化と呼んでいる。
トレードへの応用にあたっては、優先される上位足という主体、あるいは過去の時間足(支配波)が主体であるという認知をすることによって、俯瞰的な分析をしているのだ。
さらに言えばそれを分析しようと「観測している自分という主体」という認知があると言える。

第四部:主客の逆転と「責任の所在」

ポストの中で触れた「右手と左手」の比喩は、主体性の所在が極めて流動的であることを示唆している。

「右手で左手を触った時の主体は右手で客体が左手になるが、左手で握り返すと主客は逆転する」

この認知の揺らぎは、トレードにおける失敗の本質を突いている。

1. トレードにおける主客の喪失
本来、相場(客体)に対して意志を持つ自分(主体)が対峙するのがトレードだ。
しかし、負けが込んだり、コピートレードに依存したりすると、この関係が崩れてしまう。

・コピートレード: 主体を他者に預けた瞬間、自分は単なる「ボタンを押す客体」に成り下がる。
・責任転嫁: 「相場が悪い」「運が悪い」と考えるとき、主体は相場側に移り、自分は環境に翻弄されるだけの受動的な存在(客体)へと転落する。

2. 主体性を取り戻す「握り返す」という主体的行為

相場という巨大な客体に触れられている(翻弄されている)状態から、自らのルールという意志で「握り返す」こと。
この主客の逆転を自覚的に行うことが、トレードにおける主体性の回復なのだ。
AIや手法という「相似形」がどれほど精巧になっても、最後に「このリスクを引き受けるのは自分だ」と握り返す力。
その曖昧な境界線の中にこそ、トレーダーとしての、そして人間としての真の主体性が宿ると言えるのではないか。

第五部:認知的不協和とは主体と客体の逆転である

ひどいトレードをしてしまった時、未熟なトレーダーはその責任を相場に求める。あるいは運が悪かったと現実逃避をする。
この行為こそ、相場という客体に対する自分という主体の放棄、あるいは逆転と言えないだろうか。
我々トレーダーがそうした手痛い失敗を繰り返すたび、何度も修正しようとするのにうまくいかない理由は、第四部で取りあげた指摘ゆえだ。
すなわち人の主体性の認知は極めて知覚的であるということだ。
トレードは今やスマホやPCの画面の中で実行されている。
道具としてアプリを用いて、主体たる自分が実行し客体たる相場は損益としてその結果を主体へフィードバックする。
うまくいっている時は、うまく波に乗れているという感覚を得る。道具を使いこなせているという主客の明確な線引きができている。
ところが、失敗してしまった時には一気にその状況が変わる。
うまくいっている状況とはすなわち相場の中でトレードシステムが自分の思い通りに機能しているという自己相似性の表れだ。
うまくいかなかった状況になると、責任を外部に求めようとする。
自己相似している相場そのものに、主体を移譲しようする。そういうことなのではないか。


我々が相場に裏切られたと感じるのは、自分と相場の自己相似性を自ら増幅してしまうからだ。
うまくいっている時の万能感や相場との一体感が、皮肉にも主体と客体の境界を曖昧にしている。
トレード手法を確立することが、相場の中に「拡張された自分」を作り出し境界の曖昧さに拍車をかけている。
さらに言えば、含み損を抱えている時や大きく負けてしまった時の心理を考える時の反転サインを軽んじてしまう瞬間、含み損が気になって何度も見ているのに頭に入ってこないと感じる瞬間、それは判断力の低下ではなく、確証バイアスによって「見たいシナリオだけが残された状態」なのかもしれないということだ。
主客の逆転を前段として主体性を薄めようとする働きが確証バイアスによって引き起こされていると言えないか。


……我々はそんな無意識の主客の混濁を意識的に俯瞰して、主体を自分に固定し続けなければならない。


波形トレーダーとしてのフィードバック: AIが出した答えをそのまま受け取るのではなく、それによって自分の思考にどんな「波(変化)」が起きたか。その相互作用こそが新しい時代の「主体」の形である。

補足:本文中で触れた考えに近い概念としては以下のものがある
・認知的不協和
・確証バイアス
・外在帰属
・代理効果


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