― 観測軸と構造否定 ―
相場の世界では「聖杯探し」という言葉がよく嘲笑の意味で使われる。
勝てる手法など存在しない。だから聖杯などない。
そう言われる。しかし私は、聖杯を探している人を笑う気にはなれない。
なぜなら彼らが本当に探しているものは、実は「手法」ではないからだ。
聖杯探しとは、安住の地を見つけて根を張ること。自分の立つ場所を見つけることだ。
観測者は揺るぎない場所に立たなければならない。立つ場所がなければ、世界は常に揺れて見える。
相場も同じなのだ。人によって相場の見え方は違う。
幾何学的に解釈する人もいれば、数学的に解釈する人もいる。
天底を取ろうとする人もいれば、初動を狙う人もいる。
3波を取る人もいれば、固定pipsで利を積む人もいる。
千差万別で、すべてが一致することはない。
つまり聖杯とは、共通の答えとしてあるものではないということだ。
聖杯とは自分のスタイルに合った相場観であり、自分が世界を見るための認識の軸である。
どんな立場から相場を見るのか。
それを決めることができたなら、それは幸いなことだと思うのだ。
相場の世界への第一歩を思い返してみると、一寸先の闇を確かめるような緊張感があったことを思い出す。
様々な手法があることを知り、その違いや優劣もよく分からないまま、とりあえず手に取ったもので戦いに挑むような心もとなさ。
チャートの値動きに翻弄され、そのローソクの出来方に釘付けになった日々。
トレードをするという行為の上辺をなぞるだけの売買をして、何か特別なことをしている気になっていた頃。
それは突然、大きな損失として現れる。
それまでの慎重なトレードから打って変わって、ロットを引き上げたり今まで触らなかった通貨ペアを取引し始めた頃にやってくるのだ。
その失敗を悔い改めると言い訳して別の手法を調べては試すものの、どれをとってもうまくいかない。
いくつものインジケーターを入れては消して、いくつものトレード手法を試しては×をつけ、自分に才能がないのだと嘆く夜。
そんな経験をしたことがあれば、聖杯探しの徒労感を拭うことも一苦労であったと思う。
しかしそういった日々の全てが無意味だったと思わないでほしいとも思う。
様々な手法、スキャルなりデイトレなりスイングなりといったタイムスパンの選択、使用するインジの設定や、ファンダメンタルズの採用度合いなど、どれが自分にとってやりやすいものなのかを試す期間だったと思えばいい。
観測軸が定まれば、相場の見え方は静かに安定していく。そしてその上で、ようやく相場観というものが育っていく。
私は相場を自然現象として解釈している。
相場には風が吹く。その風は市場参加者の心理や合意の積み重ねによって生まれる。
そしてその風が地形に沿って流れることで、波が生まれる。
地形とは、時間の中で形成された市場の構造であり、波とは、その上を流れる価格の動きである。
私たちがチャートで見ているのは波だ。しかし波そのものが原因ではない。
風が吹き、地形に沿って流れるとき、その結果として波が現れる。
だから波だけを見ていても、相場の本質は見えてこない。重要なのは、どこに立ってそれを観測するのかだ。
観測者の立つ場所が変われば、同じ相場でもまったく違う景色になる。
だからこそ、人によって聖杯は違う。
そして観測軸が定まったとき、相場の中である瞬間が見えるようになる。
それはこれまでの説明が成立しなくなる瞬間だ。
それまで続いていた相場の構造が、ある一点で破綻する。
私はそれを「構造否定」と呼んでいる。
構造否定は原因ではない。
風が束ねられた結果として、地形の上で可視化される出来事である。
風が揃い、流れが束ねられたとき、それまでの構造は静かに崩れる。
そして新しい波が生まれる。
聖杯とは未来を当てる方法ではない。
それは、自分がどこに立って相場を見るのかを決めること。
観測軸を定めること。
そしてその場所から、風と地形と波の関係を静かに観測することだ。
だから私は、聖杯を探している人を笑う気にはなれない。
彼らは宝物を探しているのではない。
自分が根を張り、揺るぎなく立つことのできる場所を探しているのだから。
そしてその場所に立ったとき、
初めて相場は一つの自然現象として姿を現すのだ。