愚か者のFX-9-

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希望を持つという不適切
ートレードに希望を持ち込んではいけない理由ー

最後まで望みを捨てないという考え方はその生涯を通じて胸に刻み込むことによって人生を切り拓く原動力になる。
闇の中に差す一筋の光を信じるような気持ちを、遥か遠くに灯る光に心すがる気持ちを、私たちは希望と名付けた。その希望をなくさぬ限り、例え道半ばに挫けても何度でも立ち上がれるのだと言い聞かせてきた。
しかしFXの世界ではそうした人生の格言とも言うべき感性が仇となる。
一貫したトレーダーは、トレードをする前に必ずチャート分析をする。過去を見て今を見て未来を予想している。そして多くの人が何度もトレードを繰り返す。昨日までのトレードを踏まえて今のトレードを実行し、明日の利益を夢に見る。
損益の荒縄を撚るようにして、私たちはトレードを積み重ねるほどにチャートを知った気になっていく。知ってしまった瞬間に光が生まれて、闇もまた生まれる。
昨日の損失が脳裏に焼き付いて離れず、その損失を補填するトレードがしたくてたまらなくなる。自らの信奉するところの分析手法がシグナルを発見し、勢い込んでその波に乗り込めば過去のパターンに当てはめてこうなるはずだという希望を胸にチャートを見つめる。
そうだ。その瞬間に私たちは乗り込んだ船のオールを掴むのだ。本来掴むべきではないものを掴んで、それを希望へ近づくためなのだと信じてしまう。
自らの希望によってトレードをしてしまうと今目の前に記録されているチャートの進行を否定してしまうことになる。この分析結果によれば価格は上昇するはずだとか、これは一時的な押し戻りですぐに巡行するだろうとか、希望に即したものしか見えなくなる。
だが気づかなければならない。私たちは希望を持ってトレードしているのではなく、あくまで目の前のチャートに記録されている価格を見てトレードを始めたはずだということを。
少し先の未来を見ることさえ叶わないチャートの世界で、いったいどんな成り行きを希望する価値があるというのだろう。
私たちに出来ることはその手にオールを持つことではなく、ただ帆を張って風の吹くまま波の向かう先へと進むことだ。

すなわちこれが人間の本性を支配する矛盾なのだと思う。
この矛盾を矛盾と知らずに波に呑まれてしまう人のなんと多いことか。
私たちが堪え難い損失を被るようなトレードをしてしまう原因は、希望を持ってしまうからだったのだ。それも矛盾した希望だ。
今ここで手仕舞いすれば確保できるはずの利益をなくすかもしれないという恐怖や、ここを耐えれば損失を取り戻せるかもしれないといった希望は大いなる自己矛盾をはらんでいる。
私たちは利益が欲しい。だから利益を伸ばせそうな時に期待をするのが正しい望みの取り方であって、確定することのない未来のために今ここに現れた利益をさっさと手仕舞いしてしまったり、確定することのない未来のために今ここに膨らんでいる損失に目を背けて好転することを期待するのは誤っているのだ。
生きていく限り希望を抱く気持ちを封印することはできない、なかったことにもできない。私は今も夢想家だ。
トレードする上でたった一つ何より大事なことは、私たちのその人間らしさをトレードの最上段から降ろしてやらなければならないとういうことなのだ。

無責任な夢

前項で希望が仇となるという話をした。希望とは言い換えれば夢のようなものだとも言える。そして夢には実体がなくまた夢と現実の間に境界らしいものがない。
希望が失望になろうが夢が破れようが、現実だけは今ここにあるものの全てだ。
そんな世界に生きている私たちは誰もが自らの生に責任を負っている。
例えあいつは無責任な人だと誹られようとも、生きている限りその生からは逃れられない。その責任から解放されるまでは、誰もが自らの一生に責任を持っている。
これはトレードにも言えることだ。
叶えたい夢を実現するためにトレードを始めた人はたくさんいるだろう。日々の暮らしの充足を求めて始めた人もいるだろう。それらは人生の夢と希望であってチャートの世界には通用しない、または存在しないものだ。
我々はしばしば期待値という言葉を使ってリスクとリワードとをコントロールしようとする。
この期待値を観測的希望と言うこともできるだろうか。できると思ったなら、この考え方は捨てなければならないと考える。
チャートに希望はない。チャートにあるのは時間軸と価格軸の2つのみだ。
我々はチャートを分析して観測的希望を見つけ出すことに暇がない。その観測的希望を得るために払う犠牲、すなわちリスクとリワードとはつまり、我々がチャートに後から書き加えた我々自身の希望に他ならない。

希望とは形のないものだ。実体のないものだ。同時に失望も形や実体のないものだ。
見えないものを見ようとしてトレードしている。そういう人たちのなんと多いことだろう。
しかし人間の本質が希望を追い求めるものならば、誰もがそのしがらみにとりつかれてしまう。だからこそ我々はこのしがらみから解き放たれて、1つ1つのトレードに責任を負う必要があるのだ。
今の時間軸と価格軸の織りなすたった1つのレートを追いかけていくだけでいい。過去の失望も未来の喜びも不要なもので、今この瞬間の価格を受け入れることだけが大事なことだ。
長いトレード経験を経た今、私はその価格に対する自らの気持ちの変化を捉えてコントロールしなければならないのだと感じている。
気持ちを偽ることはできない。なかったことにはできないし、これから先に生まれるものを決めることもできない。その上、時に心は自らを巧妙に騙そうとする。
けれどルールに基づく決断を揺らがぬように奮い立たせたり、恐怖や葛藤を克服することはできる。
トレードとは金融上の通貨交換作業のようでいて、その実は自らの気持ちの変化をトレードしているのだ。
利益が伸びているなら手仕舞いしたくなる気持ちをはねのけて増し玉をする。
想定を超える損失を抱えているならいつか好転することを願いだす前に手仕舞いする。そういうことがトレーダーにとって必要な資質だ。

私たちはそのトレードの主導権を不確定な未来から、今この瞬間に刻まれている値動きの示す現在へ取り戻せばいい。
たったそれだけのことをしていこう。
そう意気込んでトレードに向かうのだが、希望を完全に手放せているわけではない。
構造を作り、ルールを決めた今でさえ、希望はふとした瞬間に顔を出す。
それは決して特別なことではない。人間である以上、避けられないものなのだと思う。
次は、そんな私が今でも破ってしまうルールについて書こうと思う。

それでも私が今も破ってしまうルール
ー構造を作っても消えないものー

構造を作り、ルールを決めた今でも、私は完全に止まれているわけではない。
昔よりは確かに止まれるようになった。だが、それでもなお、ルールを破りそうになる瞬間は存在する。

利益が伸びている時に現れる希望の姿

それは、利益が伸びている場面で起きやすい。
予定していた利確ポイントの手前や、上位足の移動平均線、明確な抵抗帯が近づいてきた時だ。
本来なら、事前に立てたシナリオに従って淡々と手仕舞いをすればいい。だが、その直前で心がざわつく。
ここで回避しようとしているのは、含み益が減ってしまうことへの恐怖なのか。
それとも、自分の見立てが崩れて反転するかもしれないという恐怖なのか。

どちらなのかは、はっきりしない。
ただ一つ確かなのは、その瞬間、判断の主語が「今の価格」から「少し先の未来」へと移っていることだ。

損失側で現れるより厄介な希望

損失を抱えた場面では、もっと分かりやすい形で希望が顔を出す。
小さな押し戻りのポイントがまだある。ここは一時的な逆行に違いない。
そう思いたくなっている時だ。
「これくらいまでなら、まだ想定内」
そう言い聞かせることで、ストップを切らずに耐える理由を作り出してしまう。

だが、その理由はチャートから導かれたものではない。
希望によって後付けされた説明に過ぎない。

直前に現れるサイン

ルールを破る直前、自分に現れるサインはかなりはっきりしている。
時間足を一つ下げる。
普段よりも頻繁にチャートを開く。
何かを確認しているようで、実際には「安心できる材料」を探しているだけだ。
この段階に入ると、判断はすでに傾いている。

止められた時と、止められなかった時

止められた時には、共通点がある。
それは、「過去に繰り返した過ちだ」と思い直せた時だ。
あの時の苦痛。
あの時の後悔。
それを具体的に思い出せた時、ようやく現在に戻ってくることができる。
一方で、止められなかった時は違う。
過去を振り返るという行為すらできず、チャートの成り行きを祈るしかなくなっている。
その時点で、トレードの主導権は完全に未来へと明け渡されている。

希望をなくそうとしている

私は今、希望をコントロールしようとしているわけではない。希望をうまく使おうとも思っていない。
希望そのものを、トレードから降ろそうとしている。
希望は人間にとって自然なものだ。だが、トレードにおいては判断を鈍らせる要因にしかならない。

構造を作っても、希望が消えることはない。
それでも、希望に気づいた瞬間に立ち止まれるかどうかで、結果は大きく変わる。
完全には止まれない。それでも、以前よりは止まれる。
今の私は、その中間に立っている。

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