ダメだと分かっていてもやってしまうというのはつまり、理性と欲望という人類の永遠のテーマのように思う。古来人々はこのシンプルな悩みに苛まれてきた。私もまたその内の1人なのだろう。
FXという点で考えると例えばギャンブル依存症がイメージされる。ギャンブルの興奮を求めて借金をしてまで賭け事をしてしまうという。過激になれば生活も破綻し、ギャンブル中心の生活になってしまうのだ。これは薬物依存と同じで完治することのない精神疾患だ。
私の場合は、過去にFXから自主的に退場して距離を取るという事ができたし、そもそも借金してまで興じるということはなかった。生活も仕事は普通に続けていたし休日はそもそも市場が開いていないので他のことをしていた。従って私はそのような依存症ではない。
またエントリーしてしまうことをエントリーしなければならないと考えていたのならば、一種の強迫性障害ともいえるかもしれないが、波の出現を期待することが根拠であって、何が何でもエントリーしなければならないと考えたことはないのでこれもやはり違う。ということで少なくとも私のコレはそういった類のものではないようだ。
問題はシンプルで、自制心の欠如と言える。この自制心の欠如が生まれるきっかけを探る必要があるのでさらに深層に迫ることにする。トレードにおける自制心の欠如は経済的破綻に繋がるというのが私の認識だ。それが分かっていてもやってしまうのだから本当に由々しき事態である。
つまり私は破綻してもいいと思っている節があるのだろうか?自分で認識していないだけで破滅主義的な無意識に囚われているのだろうか。100%ないとも言い切れないと思った。私は生まれつき耳が悪く子供の時は補聴器をつけていた。中学高校と補聴器はせずに過ごしてこれたが大人になって悪化してしまったので再度補聴器をつけるようになった。再度悪化してしまったこともさることながら、思春期の頃の自分が何を考えていたのかといえば、今は大丈夫だとしても漠然と将来は両耳が聞こえなくなる時が来るかもしれないという諦めであった。私は将来を悲観していなかったが諦めの下に達観していた。それは仕方ないことだと考えていた。そのことについて考えていた日々の事をやはり今でも覚えている。怒るでもなく泣き叫ぶでもなく、静かに受け止めていた。
だから私は、誤ったトレードをした時も暴れることなく静かに絶望する。感情の表出が極めて少なく、一見して自分でも自分がパニックに陥っていると認識できないほどの落ち着きの中で混乱していたのは、思春期に頃に達した精神的通過点の影響だったのだ。思春期の人格形成は明らかに私のトレードに影響していると思われた。ある種の消失への諦めが例え失敗してもいいという意識を生み出し、ここでトレードするのはダメだという自己抑制をとてつもなく遥かな高みから凌駕していたのだと思った。そして私はいざという時にはきちんと相場から離れることができるという成功体験を持ってしまっている。ストップロスを常に設定しているので破綻はしない。口座資金が尽きる前に自主的にFXから距離を取ることができる。私は破綻が迫っていても土壇場でそれを回避することができるので真の破綻はしないだろうという確信めいた自信がある。これは恐ろしく根深い問題だ。
これが真相とすれば理性と欲望の問題ではなくなる。知性と魂の問題だ。理性が論理を理とするならば知性は私という概念を理にしている。何が私を私たらしめているのか。破綻への諦めと真の破綻を回避できるという矛盾した自信を持ち合わせている私という在り方。この歪な魂を理想の形へ導かなくてはならない。
理想の形とは将来に渡るいつかの消失を受け入れつつも今ここでの破綻を拒否し、いつかが来るまでの間に成し遂げたい夢を実現するための努力を続けることだ。FXで財産を築き、たとえ聴力を失おうが生活していける経済力を持ち、娯楽を楽しめる人生を歩みたいと思う。生き続ける限りいつまでも変わることのない人生の目標である。これを実現するためのセルフコントロールこそが真の課題と認識する。
自制心の欠如とその克服に関する小話として下記の記事を紹介する。
ダメと知っていてもやってしまう自制心のなさ「アクラシア」を克服するための3つの方法 – GIGAZINE
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